「大阪保養の家」は2012年8月に開始しました。(当初富田林市の友人宅を、2014年からは大阪市内の山科和子さんのお家をお借りして。これまでのべ108件の方に利用してもらいました。) 山科和子さんが、今年(2024年)3月、突然旅立たれてしまいました、御年102歳でした。これまで利用者の方には、滞在の報告をかいてもらい、山科さんに持っていきました。山科さんは、子どもさんが書いた絵や言葉を特に喜ばれしっかりと読んでおられました。
今夏、他に案内できるお家や宿泊所をさがしましたが、大阪では見つけることができず、ひとまず「大阪保養の家」を終了することにしました。これまでのご利用ご協力、本当にありがとうございました。
しかし私たちは、福島原発事故は全く解決していない終わっていないこと、避難を続けている人、保養を必要としている人が今なお多くおられることを痛感しています。今後も会は継続し、やれることを考えていきます。「会ブログ」も続けていきます。「今稼働中の原発は?」「全国の原発賠償訴訟の状況」などを掲載しますので、よろしくお願いします。
ご意見ご質問等、メールで送ってくだされば幸いです。(dpjvr410@kawachi.zaq.ne.jp 橋本)
山科和子さんは、23歳の時(1945年9月9日)に長崎で原爆に遭われました。職場から自宅にもどると、ご両親は亡くなっていて、弟妹達の行方はわからないまま。18年後に山科さん自身の体に黒い斑点が出て教師を退職され療養。1965年大阪に移られてから原水爆禁止運動に参加されるようになりました。1982年ニューヨーク「国連軍縮特別総会」へ、その後22か国を訪問され、原爆の悲惨さを英語で訴えられてきました。日本の多くの学校でも語り部として体験を語られ、「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西」の代表も務められました。 まさに「生き残った被爆者の使命」を果たされてきました。
毎年7月26日山科さんのお家の近くで、「田辺の模擬原爆追悼のつどい」が開かれていて、私たちも、これまで4,5回、山科さんと一緒に参加しました。アメリカが原爆投下の練習(訓練)として全国50か所に大型爆弾を投下したこと、1945年7月26日東住吉区田辺にも落とされ犠牲者が出たこと、それが模擬原爆であったということが1990年ごろに解明されたこと等、私たちも初めて知りました。山科さんは、追悼の集いでしっかりとアピールされました。「私は長崎原爆の被爆者です。戦後私は国から子どもを産むなと言われました。憲法で保障された権利まで奪われてきました。これまで私は世界で原爆のことを訴えてきました。」と。
田辺模擬原爆・追悼の集い(2015年7月26日)
追悼碑が恩楽寺に移設されました。(2019年)
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