子どもたちに未来をわたしたい・大阪の会」ニュース(2018年7月) 

この間 私たちの保養の家の日用品や準備物へのカンパを、たくさんの方から寄せていただきました。本当にありがとうございました。 私達の会は、6年前より「保養の家」に取り組んできました(府下南部、現在大阪市内で)。この5月までに「のべ78件」の利用者がありました(福島県東北関東各地から)。福島原発事故と放射能被害は全く解決していません。今なお汚染と子どもへの影響を心配し苦しんでいる方が多くおられます。そんな中、福井県の高浜3、4号原発と大飯3、4号原発の再稼働が強行されてしまいました。原発から南100キロにある「保養の家」もこの大阪も、安心して住める・滞在できるところではなくなり心痛みます。また大阪北部地震、西日本豪雨を配慮心配されて、今夏の保養の家の利用希望者数は例年より減っています。今や災害と原発事故の危険性はどこにも迫っています。“明日はわが身の問題”です。 私達はこれからも「保養=被災者応援」「原発事故避難者の権利を守り、行政支援打ち切りに反対する取り組みや裁判」「子どもの無用な被ばくを避け健康を守っていくための要請」「原発再稼働反対」に、自らの課題として取り組んでいきます。今後もよろしくお願いします。



 本「原発事故後の子ども保養支援」出版されました!ずっと保養活 動に取り組む疋田香澄さんの著作。「保養とは何か、チェルノブイリではどうか」等わかりやすく書かれています。 希望者にお貸しできます。 



 今年も7月26日 山科和子さん( 私達の保養の家の提供者で、長崎原爆被害の語りべ )と 「田辺の模擬原爆・追悼のつどい(東住吉区)」に参加!

1945年模擬原爆が投下された地域は、全国約50カ所。アメリカが原爆投下の訓練として原爆に模した爆弾を落としたのです。7月26日朝大阪市東住吉区田辺にも投下されました。長崎の「ファットマン」と同じカボチャのような形の弾道特性のものでした。7名以上の犠牲者が出ました。



(報告) 2018「フクシマ」再訪ツアーに参加しました! ― 橋本

 「大阪府教組・退女教」主催で、福島県退女教「あけぼの会」の方の案内によるツアーでした。7月16日は、大阪に毎年保養に来られているSさんの子どもさんが出演される劇を鑑賞(東北震災を描いた力作)。17日、飯館村長谷川健一さん訪問(裏に内容を掲載)、南相馬の「小高区合同4小学校」訪問、「国道6号線」を通過し「富岡復興ソーラ―プロジェクト」見学。18日は「あけぼの会」「元小学校校長」の方から体験や現状についてお話を聞きました。福島県内どこも放射性廃棄物が置いてあることが日常化され、危険性を感じることも忘れさせられていること、政府の賠償の放棄と無責任な帰還政策によって、いびつな「復興」が形作られ県民の分断も一層進められている現実を目の当たりにしました。子どもたちの未来のため、子どもたちの無用な被ばくを少しでも避けるために、私達からも「県内モニタリングポスト撤去をするな!」「放射線安心神話を振りまくな!放射線防護教育をせよ!」「甲状腺検査の継続・他検査の拡充と健康保障を」と声をあげていくことが必要と強く感じました。 


7月17日飯館村に入ると、バス内で、0.1~0.57μsv/h 至る所にフレコンバッグが山積み。

薄い緑のフレコンバックは、蕨平(長泥の南)の焼却炉で燃やす。あけぼの会のIさん曰く「この焼却炉は知らぬ間に建てられ徹底した管理をしていて、一般のものは見学もできない。『特定秘密保護法』に指定か?とさえ感じられる」と。   


飯館村前田公民館で長谷川健一さん(元飯館村の酪農家)からお話を聞きました。

「 2017年3月31日 、飯館村は長泥地区等一部を除いて避難指示が解除された。飯館の村長が『健康被害 はいっさいない』と断言し、放射能の問題は風化させられている。しかし今も飯館村は、山も川も森も放射能だらけである。モリタリングポストの線量より自分で測るほうがずっと高くなる。飯館のきのこに、線量計が反応する『0.3μsv/h』と。家近くのきのこから400ベクレル検出されたこともある。植物や食物の汚染は、年によって、少しの場所の違いで、増えたり減ったりしたいへん複雑でありよくわからない。経年の調査・研究が必要と思う。それを国は一切やってこなかった。現在県内の汚染物は、2200万個。内1割に当たる235万個がこの飯館村にある。ここを本当に避難解除していいのかと思っている。

  3070人が入ってADR(裁判外の紛争解決センター)でたたかってきた。3分の2の世帯が認められたが、残りはまだ、これでADRを打ち切ろうとしてきている。東電は自ら起こした事故の責任を認めず『行政責任』と言い出した。東電の後ろにはいつも国がいる。

  私も、父親と嫁さん3人で、この5月に飯館村の家にもどった(子ども・孫は来ず)。嫁さんは、今も避難先だった伊達市避難所の管理人をやり、毎日通っている。この飯館で、もはや酪農はやれないので、何かやれることはないかと考え、今ソバか田んぼ作りができないかと、村の仲間5人と模索し実験栽培を始めている。行政にはどんどん意見・要望を言っている。復興対策事業予算で、昔の牛舎のあとにソバ工場を作った。 これで生計がたてられるとは思っていない。国の100ベクレル基準は本当にひどい。100ベクレル以下で基準をスルーできても、売れるとは思っていない。『風評被害』ではなく『実害』があるから。しかし今何かをやっていかねばと思い悩み、何とか取り組みだした。

  今、飯館の帰村率は10%600人、すべて高齢者である。皆孤独のなかで生活を送っている。今年4月から小中学校とこども園が開校。子どもは約100人通っている。が飯館村に居住しているのは、内8人にすぎない。60代で亡くなる人が増えているのは事実。抵抗力が落ちていて癌になりやすくなっていると思う。63億円の予算、うち20億円は学校に使われ、他は復興のシンボルの『までい館』とオブジェ、スポーツ公園造りに。公園には、全天候型テニスコートに陸上競技場まで作られた。誰がここに来て競技をするのか?一部だけ美しくし除染しても人は戻ってはこられない、こんな予算の使い方でいいのかと、強く思っている。今私は『行政がやることに何でも反対する悪者』と言われている。私はチェルノブイリにも行き、ベラルーシからは単身で保養所等を見学し、30年たった今なお病気をもつ子どもが多くいることを知った。この飯館も長い先・将来のことを考えて子どもたちのために、やれることをやりたたかっていきたい。 」

  そのあと、長谷川さんとバスで飯館村の中を回り、長谷川さんの家とソバ工場も見学させてもらいました。飯館は山々の多い緑豊か な美しい村。森や林は除染は一切されない(できない)ゆえに、いっそ う汚染が収まらない現実を見ました。「農地はもう使えないしフレコ ンバックを置いたままであると借地料が入るので、廃棄物はそのまま でいいという人が増えている」と悔しそうに語る長谷川さんでした。 


18日昼に 福島駅の北方1.5キロの信夫山 (しのぶやま)に行きました。 ふもとに以前からの巨大な廃棄物 の山があり、新たに中腹に廃棄物 を運び入れていました。